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M**W
Interesting but misguided.
I enjoyed this work more than his other work. It is well written and will provoke thought. I believe Gabriel's project is limited and misguided. As a philosopher I appreciate falsities as much as truths.
G**R
フィクションを救うために現実を捨てる形而上学
フロギストンは存在しない。存在するという理屈はあったのだろうが、往時の人の場合と、現代のわれわれが彼らの心を忖度してそう言う場合とは、もちろん別ものだろう。それは存在物の奥行ということなのか。アイデンティティーの問題ということが正解なのではないか。たとえ存在物の奥行と認めても、存在すると言えるものは存在しないということもできるのでなければならないのではないか ガブリエルによれば、存在するものは、場によって存在させられているわけである。彼は科学という場に例えば電子やニュートリノが現れるような、あるいはゲーテの創作中の魔女のような、包含関係が明白で否定しにくい例を出す。だが実際には、一つの存在に多数の場が想定できてしまう場合もある。場を統括する、一つの大きな場があるというべきなのか。そうではなく、存在が場を内包するという、ガブリエルと逆の場合もあるのではないか。これは、どちらかが正しいということではなく、どちらも正しいということと考える 存在論としての形而上学を読むということは、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか、という問いに向かいあいたいからだろう。何かというときそれは、なぜこのコップがあるのかとか、なぜあの犬がいるのか、ということではないはずだ。個別物について、それは存在しないと宣言する方法は懐疑論が嫌というほど見せつけてくれたし、たぶん私たちもそういうことが聞きたいわけではない 端的に、なぜ世界は存在するのか、と問うているのではないだろうか。この場合、世界というのは個別の「これ」ではないからそういうのであって、これの集合体というわけでもない。個別化できない何か、というくらいの気持ちか。少なくともガブリエルの定義する「世界」はどこか違うとしか言いようがない 個別化できるものについての問いなら、それは科学が答えるべきものとなる。犬の来歴やコップの出どころは追及できる。世界が宇宙と重なるなら、つまり「これ」の集合体であるなら、ビッグバンという答えがある。そういえば、私は相対論を否定しているのでビッグバンも信じないが、ガブリエルによれば物質的宇宙は存在の部分集合ということなので、ビッグバン以前のことも考えてよいはずだし、そうでないならビッグバンを否定して見せるべきではなかろうか 世界を独特に定義することで、彼は問題を回避しているだけのように見える。それを読む人は、微妙に問題がずれていると思うだろう。「ロビンフッドがシカを射たと思ったが、矢はむなしく草陰に落ちていた。シカは葉叢に戯れる陽光の作った幻影であると彼は言ったが、これを見ていた村人は、シカは確かにそこにいて、ミスを恥じたロビンフッドが言い訳をしたのだろう、と思った。ただし村人も事実は確認できなかった」このシカはいかなる場で正当化されるのか。いくつもの多重的な場を想定できるが、それは全体を持つのか。持たないとしても、シカの存在はガブリエルの思考体系では否定できないので、ではいかなる場の構造を要求するのか 世界は存在しないと言われる場合の世界も、あるいはこのような「場」とあまり違わないのではないか。存在と場の逆転があるように、場と世界の逆転もあるのではないか。そしてもう一つ、世界は存在しないと言えるなら、存在すると言えるのでなければならないのではないか フロギストンや魔女に、あるいはこれから生み出されるキャラクタに、存在すると主張する権利を、ルソーの生得権のように確保しておくというのは、いかにも奇妙な理屈ではないだろうか。もちろんそれは一面の真理を有していて、つまり日常的なことも科学の言説も、フィクション並みに危うい存在であるという主張だ この存在論は容易に逆転可能だ。すなわち彼の構成する文脈において、包括的な全体(世界)のみが存在し、内容はすべてフィクションに等しいとすることが、最も合理的な解決であるように思う
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